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管理人の日々の出来事を綴っている
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昨夜は友人と共に,Emmanuel PahudとChristian Rivetのリサイタルを聴きに出かけた。
Pahudは言わずと知れた世界的フルーティスト。ベルリン・フィルや,レ・ヴァン・フランセ等のメンバーとしてでたびたび来日している。その友人Rivetは初めて目にした名前だが,どうやらこちらも世界的ギタリストらしい。

そして,昨夜の白眉は何と言っても武満徹の作品群であった。
Pahudの演奏した『エア』は武満の遺作である。
極限までに高まった集中力と密度の高い音色が会場を満たした。
なんというか,濃い霧に覆われているホールの中で,一筋の閃光が瞬いて消えていくような。
その光が霧に消えた時,曲は閉じられる。
武満の著書や言説の節々にある,日本人の失いかけている感性。その原点である「静寂」を昨夜の演奏会で感じた。

ただ,残念だったのは,Pahudが武満の曲に込めた思いや日本人の感覚を,「静寂」の中で感じ取ろうとしていた(のだろうと思いたいが)その矢先,割れんばかりの拍手がPahudを不意に現実に呼び戻した。その拍手の主が日本人であったことは,皮肉以外の何物でもない。

最近,動と静のコントラストについてよく考える。
日々の授業でもそうだが,しゃべり倒している教師ほど,子どもにとってうざいものはあるまい。ベテランの教師は,間の取り方や声のコントラストが絶妙だ。見ているだけで非常に勉強になる。

音楽も同じだろう。
演奏するとき,それは(不正確にいえば)無音の空間に奏者が音を置くことである。
よく考えれば,それはそれは非常に神経を使う作業だ。
日常生活の中では,騒音や操音はあっても,楽音はそれほど多く存在してはいない。
無音というただでさえ異常な空間を,日常ではそれほどお目にかかることのない楽音が満たす。
それが心地よくなるか,不快指数満点の空間となるか。
それは,音を扱う者の腕にかかっている。

作曲するとき。
私自身は作曲理論を勉強したものの,作曲は全くできない。
よく考えると,何もない五線紙(あるいは図形楽譜)にどのように音を置くか。
どのような音色で,どの高さで,どんなリズムで…。想像しただけで体重が減りそうである。
お茶の水女子大学で作曲を教えている,近藤譲が書いた「音を投げる」という本がある。
久々に読んでみたくなった。
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